少年シニア 55歳から味わう国語

50半ばから人生を味わうために国語力アップを目指す記録・顛末

国語力に必要なこと               (轡田隆史 国語力をつける本より)

「国語力」をつける本―すべての能力の「土台」は、ここにある 【使用教材】国語力をつける本 著者 轡田隆史 2002年11月刊 三笠書房

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 著者の轡田氏は元新聞社の論説委員で、報道番組でもコメンテーターもされていました。いわば言葉のプロといえましょう。その轡田氏がこんなことを本書で書いています。

  わたしたちは、国語で考え、考えたことで国語で伝えあって生きているのである。だから国語について考えるとは、生きることについて考えることだ。

 轡田氏はあえて日本語と言わず国語という言葉にこだわるといいます。日本語というと何か客観的・学問的な感じになるからでしょうか。「国語力とは自分の心を読む力だ」と主張する著者からすると、国語とは、そのまま自分の腸から発する魂というニュアンスを伝える言葉と言えるかもしれません。私自身は、決して日本語という言葉にそう違和感はありませんが、ブログでは国語という言葉を表題にしたのは、轡田氏と同様の感情が働いたからかも知れません。日本語ってなかなかデリケートですね。

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 もう一つ印象に残った文章がありました。

 新聞記事だろうと紀行文だろうと論文だろうと「なぜ」がしっかり書き込まれていないとフワフワとたよりないものになってしまう

 確かにいらいらする文章や弁論に共通しているのが、「どういう意図で、こんなことを書いているのか、言っているのかが曖昧なもの」。17文字で様々な解釈を許容する俳句であっても、著者の意図が見えない作品は、どうも作者の世界に入り込むことができません。本ブログでも稚拙ながら、1回目でなぜ国語なのかを書いたのは、まず読んで下さる方に私なりの意図を知っていただきたかったからです。「なぜ」を共有できれば、人と人との相互理解も深まるのではないでしょうか

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こんな記述もあります。

 いい文章はテクニックではなく鋭い観察眼からつくられる。

 まず何に着目するかということでしょうか。俳句などは圧倒的に観察眼が作品の良し悪しをわけると思います。「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」を詠んだ芭蕉のように、狂おしく鳴く蝉の声の大合唱を閑さととらえる観察眼がこの句を輝かせています。

一茶の句でも するどい観察眼を感じます。

 負けずもう その子の親も みているか   一茶

こどもではなく、負けたこどもを無念の気持ちで眺めている親に視点をあてた一茶の鋭さ。一茶の俳句の読者の大半が子をもつ大人であれば、こどもの視点からではなく親の視点から句をつくった方が共感して貰えるという一茶の緻密な計算、というのは考えすぎでしょうか。いずれにしても国語力をつけるためには観察眼を鍛えなければならない、まだまだ勉強です。