少年シニア 55歳から味わう国語

50半ばから人生を味わうために国語力アップを目指す記録・顛末

少年文庫№8南極のペンギン(高倉健)

 

南極のペンギン  文:高倉健 画:唐仁原教久 2001年2月刊 集英社

 

 惜しまれながら昨年末に亡くなった健さんのエッセイ風絵本だ。

エッセイ風としたのは、短編すべてが実体験や実際の人のお話だから。

でもエッセイと言い切るのもなにか違和感がある。

健さんの実話ベースのショートストーリーという感じだろうか。

 

まず出だしからして健さんらしい。

   ぼくの名前は高倉健。映画俳優の仕事をしている。もう40年以上も映画の仕事をしている。

これだけの短い文で2回も「仕事」という言葉が出てくる。実に健さんらしい。

 

健さんが映画の撮影などで知り合った様々な人や動物たちのとの出会い。例えば

 

 砂嵐がやって来そうなことを知り、じっとその場で誰かの助けを期待することなく耐え忍ぶアフリカの少年、そしてそれを見て見ぬふりをする大人たち。そこに意味を感じ、自分もあえて手を貸さず心の中で少年を激励する健さん。

 

北極でのロケでブリザードに遭遇し大ピンチに陥った健さんたちを助けてくれたインド人ガイドのお話。インド人が本当に北極ガイドが務まるのかと疑っていた自分を恥じる健さん。

 

日本人の女性との別れから「冗談じゃないよ!」という日本語が口癖になってしまったハワイのベトナム料理人サムさんの想いや愚痴を聞いてあげる健さん。

 

やっと遭遇できた南極のペンギンたちが、巣作りのため石を拾ってきて、そのことで喧嘩をしたり協力しあう姿をみて、ただただ感動する健さん。

 

沖縄・石垣島の大人も加わる運動会に感激し、「僕は俳優だからよく人から拍手されるけど、拍手されるよりも拍手する方がずっと心が豊かになる」と断言して島の人たちに拍手をおくる健さん。

 

でも何といっても、健さんが愛してやまないお母さんとの話が一番絶品だ。

映画のポスターを見て、健さんがアカギレをおこしているのを発見して

 アカギレが足にできちょるね。もう寒いところで撮影しなさんな。会社の人に頼んでみたらどうかね

と健さんに訴えるお母さん。いつ心配してくれるお母さんに感謝しつつ、ついケンカになってしまう健さん。

お母さんがなくなった時に「どうしても別れたくない」と思って、お母さんの骨をかじった健さん。

「人生には深い喜びがある。骨になっても別れたくないと思える愛する人に出会える喜びだ。僕の心の中には、お母さんがずっと生き続けている」と断言する健さん。

本書を読めば、健さんが何に価値をおいて生きてきたのかがみえてくる。

まさに文は人なりだと思った。

少年文庫№7             シーラカンスとぼくらの冒険

シーラカンスとぼくらの冒険 (スプラッシュ・ストーリーズ) 文:歌代 朔 絵:町田 尚子 2011年9月刊 あかね書房 

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 シーラカンスとは約4億年前に誕生し恐竜が絶滅した白亜紀末(6500万年前)に絶滅したと思われていたが、現在でも生存が確認された魚(生きた化石)だ。

陸地を歩くことができそうな立派な胸ビレと腹ビレをもっており、魚類から両生類へ変化する過程のままの特徴を継続しているのではないかと言われている。

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 そのシーラカンスが何と東京の地下鉄に出没して、主人公であるマモルとその親友のアキラ(ともに12歳)と知り合いになるという何とも奇妙な展開で話は始まる。

受験勉強に忙しい優等生のマモル、学校の勉強自体に興味をもてないアキラが、次第にシーラカンスとの交流を通して、古生代から今まで生き抜いてきた生物のチャレンジ精神と冒険心に触れ、本当の学びとは何か、冒険や挑戦とは何かを理解していく物語である。

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 物語に出てくるシーラカンスは、海から陸へ進出した「陸シーラカンス」という設定になっている。冒頭述べたようにシーラカンスは、その形態やゲノムの解析から、陸上に進出した四足動物への進化につなぐ役割を果たした可能性が示唆されていることからも、陸シーラカンスという設定が考えられたのであろう。

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 子供,大人にかかわらず生命や宇宙や地球について、もっともっと学ぶ機会があればと思う。この本は、児童書ということもあって、学問的な説明は少々控えめだが、本書を通してシーラカンスのことや、大古の地球について学ぶきっかけになればと思う。テンポよく話が進むので、大変読みやすいのも嬉しい良書だ。

創作句  いのち

 痩せ蛙 いのちいのちと 鳴きにけり

 

 動物や植物の潔さに敬服しています。

 死ぬまで生きる ただただ そのことを実践しています。

 蛙も生きている間は、必死で獲物をとり、生を維持し

 次なる生を引き継ぐべく、パートナーを探して鳴いているのでしょうね。

 

「もらう」と「くれる」の違いについて

外国人に日本語を教えたいという目標があり、今一度日本語を勉強しています。

その中で、「もらう」と「くれる」という授受動詞の違いについて整理します。

 

・私は山田さんに親切にしてもらいました。

・山田さんは私に親切にしてくれました。

 

まず「くれる」の場合、原則、受ける対象は「私」になります。厳密にいうと

自分の身内も受ける対象にできます(山田さんは母に親切にしてくれました等)

「もらう」の場合は、受ける相手が私や私の身内でなくても成立します。

 

・あなたは山田さんに親切にしてもらいました。(〇)

・山田さんはあなたに親切にしてくれました。(✖)

  

あと微妙ではありますが、「くれる」の方が、感謝する気持ちが強く感じられます。「もらう」が、受け手が依頼・嘆願して与え手が動く時に使用されることがが多いのに対して、「くれる」は、受け手が依頼・嘆願していないのに、与え手が気をきかせて動くときに使用されることが多いからと思われます。

 

・私は、山田さんに(お願いして)薬を買ってきてもらった。

・山田さんは (私に親切にも)薬をかってきてくれた。

 

ただ面白いのは.自分が相手にものを渡すときに「くれてやる」などという言い方で使う場合は、一転して喧嘩腰に相手を見下したときに使います。

なかなか一筋縄でいかないのが、「くれる」という言葉です。

 

少年文庫 №6 魔法のカクテル       (終わりよければすべてよし)

魔法のカクテル 著者ミッヒャエル・エンデ 訳者 川西芙沙 1992年6月刊 岩波書店

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 「モモ」で有名なミヒャエル・エンデの晩年の作品です。「モモ」同様、風刺のきいたお話ですが、よりユーモラスに仕上げているなと感じました。風刺の対象は「お金の奴隷となった科学技術と人間社会」です。

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 まずお金の奴隷となった科学技術の象徴と思われるイルヴィツアーという魔術師が登場します。彼は地獄の魔王から「10種類の動物を絶滅させる」「国の気候を操作して四季を乱し日照りか洪水を起こす」など5つのよくないことを実行するよう宿題を課されていますが、まだ半分しか実行できていません。

地獄の魔王の使者マーデが督促にやってきてイルヴィツアーは大慌てです。今日は大晦日の午後5時すぎ、もう時間がないのです。

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 そこに伯母のティラニアがやってきます。金の亡者なので、こちらが金融資本家の象徴でしょう。魔法のカクテルのつくり方を書いた説明書の残り半分が、イルヴィツアーの家にあるので、これを金で買い取ろうとやって来たのです。

実は魔法のカクテルは凄い力があって、指示通りの方法でカクテルを作り、願いの言葉を唱えると確実に願いが実現するというのです。

イルヴィツアーは、魔王の約束を一気に果たすチャンスと考えました。あわよくば伯母が持っている半分の説明書を奪って自分のものにしようと画策します。もしこれが果たされれば、地球は大変なことになってしまいます。

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 この魔術師たちは、それぞれマウロ(猫)とヤーコブ(烏)というペットを飼っていました。実はこの動物たちは、「動物最高評議会」から送り込まれたスパイなのです。魔術師の好き放題の仕業に危機感を抱いた評議会は、魔術師の動向を探っていたのです。

しかしマウロもヤーコブもどうも頼りない。マウロなどはイルヴィツアーが大切にしてくれるので感謝してスパイであることを自分の口から話してしまう始末です。またヤーコブの方も芝居が下手でスパイということが伯母にばれっちゃっています。

こんなドジ達ですがさすがに魔法のカクテルの話を聞き魔術師の本性を知ると、この企みを阻止しようと家を飛び出します。地球の運命はこのドジ達にかかっています。さてマウロとヤーコブは地球を救えるのでしょうか・・・・

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 エンデは会話の達人ですね。だからこの物語は舞台で演じられると最高だと思います。物語は実質大晦日の午後5時から12時までの7時間。場所はイルヴィツアーの家が殆どで、あとは教会の付近の2か所。役者も6人で済みます。会話自体の面白味が勝負の物語ですから、これも舞台向きだと思います。自分の好みの役者を振り当てて読んで見るのも楽しいかと思います。

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 魔法のカクテルの呪文は、実は言ったことと逆のことが実現するのです。

だから魔術師はこんなふうに言います。

 カクテルの中のカクテルよ。わたしの願いをかなえておくれ。

 危険なものからできるエネルギー。やめてほしいエネルギー。ゲップ。

 風と太陽 つかいましょ。風と太陽 力のもとよ。

そうすると逆に危険なエネルギーがやってくるのです。

これなど原発社会の危うさを、この物語を通して読者に伝えていると思えます。

絶滅動物の保護などを意図した呪文も読まれます。

 

エンデは児童作家という範疇をこえた作家です。

私は嫌な老人にはなりたくないので、今後もエンデを読み続けようと思います。

 

 

 

言葉の難しさについて(その一言が余計ですより)

その一言が余計です。: 日本語の「正しさ」を問う (ちくま新書)    著者 山田敏弘 2013年5月刊 筑摩書房       

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 これは他人事ではないテーマです。私もよく人に「要らんこといい」といわれますので。私の場合、沈黙に耐えかねてつい軽口に言わなくてもいいことを言ったり、売り言葉に買い言葉で必要以上に反論してしまうことが多いです。ただ、こちらに全く自覚がないのに相手を怒らせている場合もあるようで、結構やっかいな問題だったりします。

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 自分の事は完全に棚にあげて言えば、一番嫌なタイプは「正論を吐く毒舌家」と「慇懃無礼な嫌味なタイプ」で、このタイプは必ず余計な一言を発しますね。

本書であがっているのは、こんな余計な一言。

 

「まあ 頑張ってください」

言外にどうせ駄目だろうというニュアンス。不十分を意味する「まあ」が余計。

「行ければ行くけど」

〜けどという終わり方で、敢えてはっきりさせずに相手は困る。

「〜よね」「〜よ」「〜ぞ」

上記の助詞で終わると場合によっては馴れ馴れしい。偉そう。押しつけがましい

「〜でいいです」

  なんか上から目線で態度がはっきりしない。

 

 この他、相手の話にすぐ「でも」「ただ」と反論の接続詞を使って相手の意見を受け止めようとしなかったり、相手がもっとしゃべりたがっているのに「ところで」と言って話の腰を折ったり、「つまりこういうことでしょ」とか言って話をまとめようとするようなことが、相手にとって余計な一言になる事例などが挙げられています。皆あるあるですね。

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 ただ本書は、余計な一言に留意して言い換えることは重要だが、時に余計な一言への糾弾が言葉狩りになっていしまってもいけないと主張しています。近年よく指摘されるコンビニ言葉なども、お客さんに敬意を示したり、断定を避け少し柔らかい表現にしようとして、少々不自然な言葉になっているだけで、そう目くじらを立てるほどのことであろうかと言うわけです。

この点は、私も筆者と同意見で、言葉は確かに大切ではあるけれど、もっと大切なのは、その言葉を発する人の心のありようで、直接話をしている場合は、そこに誠意が感じられれば、殆ど問題がないということなんだと思います。

常に形から入る人というのは、その事実によって相手を追い込む場合もあり、時にそういう人は、形は見えないけれど重要なことに対しては、全く無頓着でデリカシーのない人が見受けられます。

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 あと本書を読んで思ったこととしては、「余計な一言」もまずいけれど、相手に対して沈黙を通すとか素っ気なく振る舞うことで、関係性を壊してしまっている方が問題なのではないかという気もします。余計な一言の本意を確認してから態度を決めるという心の余裕さも大切なのではないでしょうか。

ああコミュニケーションはむずかしい!!

 

少年文庫№5 モ モ (エンデ)

  モモ (岩波少年文庫(127))著者 ミヒャエル・エンデ 訳者 大島かおり 2005年6月刊 岩波書店

               

  業務の効率化は経営の永遠の課題のようで、手を変え品を変えては実行に移されますが、その陰で行き過ぎた効率化により様々な弊害が起きています。それは業務のみならず、時に人間をもその強迫概念で追い込み疲労させ粉砕させます。

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 この物語の主人公モモが迷い込んだこの古い街にも、皆の気が付いていない所でそのような状況が進行していたようです。

貧しくとも気のいい人たちが自分達の仕事に誇りをもってそれなりに暮らしていたこの街は、時間貯蓄銀行に所属する灰色の男たちが忍び込んできたのを機に、時間に追われるだけの無味乾燥な人々の魅力のない街になりはててしまいます。

灰色の男たちは、人々が貯蓄した時間をエネルギーにして生きており、それは人間の心が作り出しているのです。

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 人々の気持ちを開放させることができるモモの力も及ばず、モモの最大の理解者のお調子者の青年ジジも掃除夫のべボ爺さんも、結局は灰色の男たちによって時間に追われる人間になってしまいました。自分達で遊びを考えて本来は時間に縛られない子供達も、学校で機械的な学習をさせられて輝きを失っていきます。

 しかし外からの圧力に屈せず自分の意志で時を過ごす能力をもつモモは、同じ能力をもつカメのカシオペァの助力を受けて、灰色の男たちから時間を奪い返し、時間と自分を失った人々に戻そうとします。さてその結末は如何に・・・・

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 この奇妙な物語は、効率ばかりを追い求め人間らしさを自ら失った社会に対する痛烈な時代批判です。

金に縛られない者でも概して時間には縛られる。手帳のスケジュール欄に予定を埋めないと不安で仕方がない人は今も多くいます。

効率性を求められ、それをそのまま無批判に服従する人は、時間の奴隷に成り、人生の豊かさをいとも簡単に捨ててしまいがちです。そしてその結果、無気力で逆に時間を持て余すような人に成り果ててしまうのです。

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 エンデはこの物語を40年前に書いたのですが、残念ながらこの憂うべく状況は益々ひどくなってきており、より巧妙な形で我々に忍び寄ってきている気がしてなりません。社会や組織が大きな枠組みを決め、その中でのみの自主性を促すというやり方により、自主性を尊重しているポーズをとるわけです。

学生の頃、エーリッヒフロムの「自由からの逃走」という本を読んで衝撃を受けました。人間は自由を希求しながらも、実際は自由を恐れ大きな枠の中で統制されたいと願っているとフロムは言うのです。

そしてナチズムを支えたのは、当時のドイツ人のこの自由からの逃走という欲求だと主張しました。

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 時間から自由になるのは中々大変なことです。簡単にはモモやカシオペアのようになれないのです。

しかし生きている間の一時でもいいから時間に縛られない自由を得たいと思います。この自由なくしては本当の意味での主体的な生き方はないことを、この物語が教えてくれている気がしてなりません。